第8章 頭の悪いお前らの偏愛
有岡隼人の耳には、それはただの負け惜しみにしか聞こえなかった。里穂が安菜に引っかかっているのは、兄たちの関心が自分から逸れたことへの不満――ただ、それだけだ。
けれど里穂は、生まれた瞬間から何でも持っている。一方の安菜は違う。しかも彼らは、西川おばさんに「安菜をきちんと面倒見る」と約束したばかりだ。
里穂がずっとこの調子なら、安菜の有岡家での日々はきっと楽じゃない。
「止まれ!」
有岡隼人の威圧する声が、唐突に落ちた。重い低気圧がじわじわと広がり、空気そのものが沈んでいく。
里穂は、隼人兄さんが本気で怒っているときの顔を知っている。
――でも、そこまで怒らせるようなこと、した覚えはない。
「有岡家の躾ってのは、お前みたいな無礼を教えるのか。有岡里穂、お前はもう十分すぎるほど持っている。安菜の、たったそれだけのものにまで噛みつくな」
……噛みつく?
里穂の瞳が、わずかに揺れた。
前の人生の記憶が、潮のように押し寄せる。白い腕に採血針が沈み込んだ、あの刺すような痛みまで――まるで今ここで起きているみたいに、鮮明に。
西川安菜が持っていたのは、そんな「たったそれだけ」なんかじゃない。
奪ったのは、有岡家の居場所だけじゃない。兄たちの愛情も、そして――里穂の命そのもの。
泣きそうな顔ひとつ。か弱く寄る辺ないふりひとつ。それだけで、いとも簡単に全部を攫っていく。
前の人生の里穂は愚かだった。兄たちに責められるたび、必死に説明した。言葉を尽くして、誤解を解こうとした。
返ってきたのは、疑いの連続だけ。
最初から信じる気のない相手に、何を言っても無駄だ。
「……お兄ちゃんがそう思うなら、それでいいよ。私が小さい人間だってことにして」
不意に折れた里穂の態度に、隼人は一瞬だけ調子を崩した。唇がわずかに動き、言葉を選ぶ。
「分かってるなら直せ。里穂、安菜はもうすぐ学校だ。お前たちは長く一緒にいたし……母親を亡くしたばかりなんだ。お前が支えてやれ」
頼みじゃない。確認でもない。
――『そうするべきだ』という形で押しつけてくる、正義という名の束縛。
いつもの里穂なら食い下がっただろう。けれど今は、争う気力すら湧かない。
「分かった」
適当に頷く。
それだけで隼人の顔色が少し和らいだ。
「明日の朝、安菜が登校する。お前が行くとき、連れて行け。運転手にも待たせておく」
里穂は眉間にしわを寄せ、反射的にポケットの中の免許証に触れた。
安菜を乗せて行け、だって?
――寝言は寝て言え。
翌朝。
里穂はいつもより早く起き、7時には駐車場からマセラティを出した。
彼女が学校に着くころ、有岡家の西川安菜はようやく起きたばかりだった。のんびり身支度を整え、朝食まで済ませ、時間を見計らって玄関へ向かう。
昨夜、隼人が里穂に「待て」と言ったのを聞いている。だからこそ、絶対に先には行かない。
――どれだけ嫌がっても、里穂は外で待っているはず。そうやって特権を見せつけて、思い知らせる。
ところが。
玄関を出た瞬間、安菜は呆然と立ち尽くした。
車がない。
風が落ち葉を巻き上げる中、甲高い声が弾けた。
「車は!?」
安菜は小走りで執事の渡辺の前へ詰め寄る。
渡辺は、失礼な口調にわずかに眉をひそめながらも、礼儀正しく頭を下げた。
「若様方は、すでにお車で会社へ向かわれました」
安菜が三兄弟と親しくしているのを見て、隼人たちの車を探しているのだと思ったのだ。
「違う! 兄さんたちじゃない! 有岡里穂よ! 隼人兄さんが、玄関で待てって言ったでしょう!」
焦りが声を荒げる。
わざわざ早起きしてまで「格の違い」を見せつけるつもりだったのに。もうすぐ8時だ。1時間目に遅れたら、先生やクラスメイトの印象が悪くなる。
「ねえ、聞いてるの!?」
渡辺は我に返り、首を横に振った。
「申し訳ございません。里穂様は7時過ぎに、お車で出られましたが……」
「7時? 運転手に行かせたの?」
渡辺の「お車で」を、安菜は勝手に「運転手に」と聞き違えた。顔がみるみる険しくなる。
昨夜、里穂が「分かった」と返したのを確かに聞いたのに。なのに朝になったら、ひとりで出ていった?
兄たちは会社、運転手もいない。授業開始が迫るこの時間に、わざと置き去りにするなんて――。
「有岡里穂……わざと私を置いていった……!」
握りしめた拳が震えた。
離れた位置にいた渡辺が聞き返す。
「……西川様、今、何か?」
「西川様」
その呼び方が、怒りの熱を現実へ引き戻した。
安菜は深呼吸し、掌に爪を食い込ませる。痛みで理性をつなぎとめる。
――まだ、有岡家に来て日が浅い。使用人相手に揉めるのは悪手。
でも、このままでは済ませない。
「……何でもありません」
安菜は瞬時に表情を作り替え、しおらしく笑った。
「里穂様はお嬢様ですもの。運転手さんを待たせたくないのも当然です。私、自分で行きます」
リュックを抱え直し、さらに念を押す。
「渡辺さん、このことは隼人兄さんたちに言わないでくださいね。心配させたくないので……里穂様も、まだ慣れてないだけかもしれませんし。私、大丈夫ですから」
言外に匂わせる。
――隼人が一番気にしているのは私だ、と。
渡辺は当主に忠実だ。必ず耳に入る。そうすれば、里穂が叱られる。
胸の奥に溜まっていた息が、ようやく少しだけ抜けた。
それから安菜はバス停まで走り、どうにか学校へ辿り着いた。
臨市第一高校は規律が厳しく、遅刻者はほとんどいない。まして高3、さらに特進クラスともなればなおさらだ。
委託生が初日から遅刻した――その噂はあっという間に広がった。
とはいえ特進クラスの話題の消費は早い。食堂に人気メニューが出た程度の扱いで、すぐ別の話へ移る。
「里穂、次の時間、実力テストだよね。今回も1位じゃない?」
